東京2020オリンピックが始まるまであと数日ですね。夏季オリンピックといえば、私はかつて開催都市に住んでいたことがあり、2週間まるまるスポーツで盛り上がる壮大な雰囲気を味わった体験があります。でも、その想い出は2012年のロンドンオリンピックではなく、2000年のシドニーオリンピック。2012年の夏、私はすでに日本にいたので、イギリスの友人や家族からのSNS投稿を見て、オリンピックの雰囲気を楽しみました。でもシドニーで味わったあの素晴らしい体験は、やはり特別な想い出です。開催都市に住んでいるというのは、とても貴重な機会だと思います。というわけで、今日はシドニーオリンピックのお話です。
シドニーがオリンピック開催の地に決まるまでの旅路は、私がオーストラリアに移住して半年後の1993年9月にスタートしました。I.O.Cのホアン・アントニオ・サマランチ会長が「勝者はシドニーです」とモナコで発表したのは、シドニー時間の午前4時27分。彼はシドニーを正しく発音できなかったのですが、誰も責める人はいませんでした。オーストラリア国民はみな夜通し、この発表を待っていたのです。対抗馬は北京でしたが、2000年大会の開催地に選ばれたのはシドニーでした。オペラハウス前のサーキュラーキーには大勢の人々が集まって、一晩中盛大に祝いました。私は自宅でテレビ中継を見たあと、たしか午前8時頃には街に出て仕事を始めましたが、パーティーはまだ盛り上がっていたのを覚えています。そしてパーティは一日中つづきました。当時のポール・キーティング首相が「この決定はオーストラリアの国際的な立ち位置を変えるほど大きなものだ」と話したように、この日はオーストラリアの歴史において非常に大きな意味を成す一日となりました。
そして、大会が始まるのを7年間待ちました。お金の無駄だとか、オーストラリアまで見に来る人なんているのかとか、市内の交通機関が対応できないのではなどなど、いつもの議論がありましたが、でも確かに国の対応は遅れていたと思います。さて、私の母が、どうしてもイギリスから観に訪れたいというのでチケットの抽選に申し込みをしました。するとなんと、2日間で2枚のチケットが手に入りました。母が選んだ馬術のクロスカントリーと、私が選んだオリンピックスタジアムでの陸上競技です。シドニー郊外の暖かく晴れた春の日に、私たちは素晴らしい一日を過ごしました。なかでも一生忘れられない想い出になったのは、陸上競技の夜でした。私が手にした9月25日月曜日のチケットは、のちに「マジックマンデー」として知られるようになり、今日まで陸上競技史上最もスリリングな夜だと言われるほどですから、どんなにラッキーだったかと思わずにはいられません。9つの決勝戦(3フィールド、6トラック)が行われました。オーストラリアの目玉種目は女子400m決勝で、ノースクイーンズランド州マッカイ出身のアボリジニであるキャシー・フリーマンが出場しました。
彼女はシドニーオリンピックのポスターガールでもあり、寒い夜の開会式で聖火を灯しました。しかし、レースの話題はつねに論争に満ちていて、その中心にはライバルであるフランス人女性のマリー=ジョゼ・ペレクがいました。ペレクへの注目はすさまじく、まるでメロドラマのようでした。彼女はマスコミに嫌がらせを受けて追い詰められ、侵入者や脅迫など真偽のわからない話があるなか、最終的には謎に満ちた状況のままオーストラリアから逃げ帰ることになりました。
のちにペレクは「シドニーの400mはキャシー・フリーマンとのレースではなく、国全体とのレースだった。私は400mレースの準備しかできていなかった」と語っています。
キャシーへの期待もものすごいものでした。母と私はスタジアムの高い場所で安い席に座っていました。夜の部最初の決勝だった女子棒高跳びからスタートし、112,000人の観客が魅了されました。アメリカの元ロデオライダーのステーシー・ドラギラが金メダルを、ロシア生まれのオーストラリア人タチアナ・グリゴリエワが銀メダルを獲得しました。それからジョナサン・エドワーズをフィーチャーした男子三段跳びが、私たちが座っている真下で始まりました。エドワーズは金メダルを獲りました。そして最大の注目は、やはり女子400m決勝でした。キャシーがトラックスーツを脱いでナイキデザインのユニークなフルボディスーツを披露すると、スタジアム中の視線がキャシーに向けられました。まるで声明のようでした。スターティングブロックに足を置くアスリートたち、スタジアムがしーんと静まり返り、息を飲む音も聞こえそうでした。「パンッ」とスタートピストルが響いた瞬間に、デシベルレベルが急上昇。そのスタジアムのエネルギーは私の経験値を超えていました。大群衆のなかでマンチェスター・ユナイテッド(サッカー)の試合を観たこともありましたが、オリンピックスタジアムの空気感は何か別物で、本当に特別でした。ただ、フリーマンは先頭ではなく、コーナー地点ではジャマイカのロレーヌ・グラハムとイギリスのキャサリン・メリーに次ぐ3位の状況でした。
ところが、ゴール前の直線コースで、彼女は先頭に出ました。彼女のトレードマークである長いストライドが地面を捉え、大きな差がついたのです。
ゴールを切った瞬間、キャシーは目を閉じて長いため息をつきました。勝利への安堵が見て取れました。彼女はトラックに座り、靴を脱ぎました。彼女のウィニングランはとても印象的で、アボリジニの旗とオーストラリアの旗を掲げていました。じつは 1994年にレースで勝利した際、彼女がアボリジニの旗を掲げたことが大きな論争を巻き起こしました。しかし2000年のシドニーオリンピックでは、同じ行為が共感をもって受け入れられました。オーストラリアの人々がアボリジニの人々との和解を求め、アボリジニ文化への誇りを象徴しているようでした。
キャシー・フリーマンが最大の見どころでしたが、そのほかの競技も期待を裏切ることはありませんでした。フリーマンが金メダルを獲得した15分後には、マイケル・ジョンソンが男子400mを制してタイトルを維持しました。
次のトラック決勝では、キューバのアニエル・ガルシアが、世界チャンピオンのコリン・ジャクソンとオリンピックチャンピオンのアレン・ジョンソンを破り、男子110mハードルで金メダルを獲得しました。
女子5000m決勝ではルーマニアのガブリエラ・サボーとアイルランドのソニア・オサリバンが激戦を披露しました。また女子800m決勝では、モザンビークのマリア・ムトラがゴール直前で先頭におどりでて、初めての金メダルを獲得しました。
目の前で次々にエネルギッシュな競技が繰り広げられ、私は最高の気分を味わっていました。そしてこの完璧な夜は、エチオピアのハイレ・ゲブレセラシェがケニアのライバルであるポール・テルゴットを0.09秒で破ぶるという、史上最高の男子10,000m決勝で締めくくられました。
キャシー・フリーマンはあの夜、オーストラリアをひとつにしました。そして私個人としても、新しく自分を受け入れてくれた国に対しての真の繋がりと、誇りを感じた夜でした。東京2020オリンピックも、私たちみんなにとって大切な想い出になることを願うばかりです。
下記のリンクは、私が体験したマジックマンデーに行われたすべての競技を30分にまとめたハイライト映像です。オリンピック委員会はどうやらリンクをはめ込ませてくれない(ブーイングですね)のですが、ブラウザにURLをコピペしてご覧になってみてください。とても単調なナレーションですがご容赦ください。
www.youtube.com/watch?v=KBjuhq__XPk
そして最後に触れておかなければならないのが、カイリ・ミノーグについて。彼女に言及せずにオーストラリアを語ることはできません。下記は2000年シドニーオリンピックの開会式でダンシングクイーンを歌っている彼女の映像なのですが、こちらも残念ながらオリンピック委員会が公式映像を管理しているため、ステージ上の姿を見ることはできなそうです。